福島のお母さんから
初回の元気村キャンプから参加している子どものお母さんから
ここに紹介するお母さんの文章は、震災時の福島のようす、元気村キャンプが始まった当初のことが事細かに書かれています。
あの時、ここにでてくるやり取りをしている時に、電話口の相手がこのような思いをしている事、想像できませんでした。
全てが手探りで始めたキャンプ、とにかく希望に応えたいといった思いでした。
どうかこの文章が多くの人の目に触れ、震災のこと、福島でおきていること、どういう思いで子どもたちを送り出しているか、少しでも理解して欲してもらえればと切に願います。
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いつもお世話になっています。
文章の中にでてくる、中学生ボランティアの中学2年生、長男と、女子は難しいとぼーちゃんを悩ませてる小学5年生、長女の母です。
ぼーちゃんが長文なので、対抗して?こちらも長文になります。
お時間がありましたら読んでいただけると幸いです^_^
唐突ですが、みなさんは、ふくしまっこ元気村キャンプでお世話になってる子供達の親って?って疑問に思われたことはありませんか?
わたしなら疑問に思うので(笑)
震災からふくしまっこ元気村キャンプへの出会い。福島に戻ってからの日常について書いてみます。
【震災の日】
2011.3.11
長男は小学3年生、長女は幼稚園の年長さん。春休みまであと一週間というときに、震災がおきました。
私が勤務していた7階建てのビルは激しく揺れ、6階の事務所は、コピー機は動き中央に。書庫に並んだ15あるラックはドミノ倒しになり、仕切りのガラス戸を突き破り、6万冊あるファイルが散乱。
激しく長く揺れたことで、ラックが何度もあたった、壁はえぐられ穴が空いていました。
ロッカー室に置いてあるウォーターサーバーやコーヒーサーバーも倒れ、ロッカー室への入口ドアを塞ぎ。室外退避のアナウンスを30分待って外へでた時、ロッカーへ戻って上着を羽織ることはできませんでした。
警備会社の警報アラームがなり響く階段を降り外へ。
退避場所の駐車場へは、他の会社からもたくさんの人が押し寄せ。余震のたびに地鳴りが響き、揺れる駐車場、吹雪の中、次の指示をまつしかありませんでした。
街のビルの電気はすべて消えて、いつもと違う異様な様子でした。
ですが、揺れと同時に確認した14時46分という時間。長男は学校にいるだろう。長女は園バスで帰宅しているだろうと、下校途中ではないだろうと予想し安否にそんなに不安はありませんでした。
もちろん自宅、携帯へ電話はつながりません。
16時00にようやく会社を出て、後に県道が陥没して走行できずにいたんだと知った渋滞にまきこまれながら、いつもより時間がかかりながら17時に家に着くと。
案の定、長女は同居の義母といて無事。幸い家の中も壊れたものはない。でも、あれ?長男がいません。
あわてて近所の方に事情をきこうにも、誰も帰ってきていない。
義母に長女をまかせ、車で学校へむかう途中、すれ違った友達に、親が引き取りにいくことになっているようだと知ります。
余震の危険と親が家にいないことを考慮した学校の判断でした。
その間も余震がつづき、パトカーがサイレンをならして、走り抜けていきます。迎えに急ぎたいのに、余震のたびに車の列は止まり、渋滞ですすみません。
地震から2時間30分、学校にいたから安心だろうとおもっていましたが、寒い体育館で私の迎えをずっと、まってるんだと、可哀想であせる気持ちが強くなります。
やっと学校へ着いたら、長男は30分前に、お隣の3兄弟のお父さんに連れられて帰った後でした。
後で聞いたら、お隣のお父さんは、帰宅渋滞にまきこまれたことから、自転車で迎えへ。そうですよね。車でいったら、渋滞ですよね。反省。
長男は帰った後でしたが、見知った顔がちらほら。先生も全員引き渡さないと帰れない。皆が不安げな表情でした。寒い体育館で、上履きのままの子供たち。
3人車に乗せ、送りながら帰りました。
帰りながら、ガソリンスタンドに列を作っているのや、コンビニも満車なのを、なんでかなー?なんて呑気に見過ごしていました。
後でガソリン不足や食料不足になることを知らずに。
震災が金曜日だったことで、土日は家のことに専念。幸い、我が家の地域は電気が止まることはありませんでした。オール電化の我が家にはありがたいことでした。
水は1週間後に5日ほど止まりましたが、震災の半年前まで豆腐屋をやっていた実家兼店舗は井戸を使用していたため、水を運ぶ手間があるだけで、困ることはありませんでした。
半年前に仕事を廃業してた父は、井戸水を地域へ解放することで役目ができ、一人暮らしの老人や、透析患者の為の水を確保する病院への提供に忙しそうでした。井戸が干上がって、自分達が使う水がなくなるなんてこともありましたが、地域の方に頼りにされ、生き生きしていたような気もします。
大きな地震だったんだとジワジワと理解し、翌日、食料を買い出しにいき、なぜコンビニが満車だったのか、ガソリンスタンドに列ができていたのか知ることになります。
震災で高速道路が寸断され、供給がストップしたコンビニには、レトルトの味噌汁が二つのこっていただけ。食料や、日用品は何もありません。
あわてて、生協へ。
天井が抜け落ち、雨漏りがする店内のため、入場制限がかかり、並ぶことに。
そんなとき、爆発がおきたのです。
そんなことは知らずに、子供達と並び、食料品を買い。
飲料水を求め、また次のお店へ。
津波のニュース、爆発のニュース。
そのあたりから、これは普通じゃないんだ。大震災なんだ!と自覚したのを覚えています。
小学校、中学校、高校の体育館はたちまち、たくさんの避難者の方たちで埋まり、会社の空き会議室にも、避難者の方たちが。
爆発のニュースを受け、近所から子供達が次々と消えていきます。
県内でも安全な会津の祖父母のところや、県外の親戚宅へ。
春休みが長くなってラッキーなんていっていた子供達も、遊び相手がいなくなり、突然外へでてはいけないといわれ、避難先を模索しだす大人達をみてどう思ったのか。
金融業のわたしは週明けから通常勤務。自動車通勤でしたが、高速道路は寸断されたままでしたし、また風評被害でガソリンが隣県までしか運ばれてこない、、、供給に制限があるガソリンを温存するために、(2時間並んで2000円分いれられるような状況でした。)1時間歩いて勤務先へ。
中心部は停電な上に水道も止まっていました。飲食店などはシャッターがおり、働いているのは金融機関と公務員のみ。オフィス街はゴーストタウンのようでした。
サービス業の夫は、本社から日数未定の自宅待機命令。
それでも携帯がつながりだすと、お客様から、電話がなりひびき、お客様の様子を見にいったり、自己判断での後処理に追われることになります。
後に、線量が高く避難指示がでた場所へも連日通っていました。
そうこうしている内に、春休みに入り、幼稚園の卒園式は中止の案内が。延期ではなく中止。
卒園生が避難していないためです。
新1年生の長女の入学式は、子供より、親のほうが不安でした。
【2011.8秋田保養】
友達だけでなく、身近な親戚も県外への避難、移住を決める中。
我が家だけ、、、という思いと。
私が会社を離職してこども達を連れて、、、でも家族が離れてまで、、住宅ローンはどうしよう。
第一、避難先にあてがない。。
ぐるぐる毎日考えるようになります。
父親が福島に残り、母子避難する家庭がが多かったので、とても悩みました。
毎日テレビや新聞では、
東日本大震災を伝えるニュース。
線量が高いのになぜ避難しないと議論するニュース。
2人が初夏をむかえる陽気の中、マスクに長袖で通う通学姿をみながら、ぐるぐるぐるぐると。
そんな中、長期休暇は県外で保養をしてはどうかと県が夏休みを一週間延長すると発表。
ママ友達から秋田県が引き受けを名乗り出てくれていて、福島県が宿泊費用を負担してくれるらしい!
どうせなら、みんなでいこうと!
その頃には、一週間でも県外へでて保養することが意味があるといわれはじめていて、うん、行こう!と
会社を一ヶ月休んで一緒にいく家庭もありましたが、我が家のように祖父母と避難させ、両親が週末秋田へ通う家庭が多かったように思います。
我が家のような家庭だと、子供たちが寂しい思いをするんじゃないか。それなら、町内まるごと、仲のいい家族みんなでいこうよ!
と震災後はじめての2011年の夏を15家族以上一緒に秋田ですごすことになりました。
避難先に選んだ田沢市、田沢湖のまわりの旅館。ペンションはたくさんのふくしまっこであふれ、近所へ買い物へいくと、必ず友達に会う。福島市へいるような錯覚になるほどでした。
自主避難者への対応で、高速道路が無料だったことも、秋田への長期避難を決断させました。
金曜、会社が終わったら、その足で高速を飛ばし秋田へ。週末勤務の夫は、私を、秋田へ送って一泊し子供たちの寝顔をみて、翌土曜日早朝にに帰りそのまま出勤。
そして日曜の夜に私を、迎えにきて一泊し、月曜の早朝夫婦で帰りそのまま、それぞれの勤務先へ。
これから先、何年間といつまで続くかわからない避難生活を考えると、お金もあまりかけらない。
新幹線を使ったのは一度だけでした。
今同じことをできるかといわれたら、、、無理だとおもいます。
でも、あの時は、県外避難を選ばなかった自分を戒めてるように、、どの親もみんなが必死でした。
子供たちは、田沢湖で毎日のように湖水浴をして、地元のおいしいごはんをたべて、時には秘湯につかったり。秋田の自然の中ですごしていました。私にはつかぬまのほっとした時間でした。
ところが、夏休み明けしばらくして、長女が『ママー!今日は校庭の探検をしたよ!はじめて校庭にでれたよ!』と喜んで帰ってきました。
夏休み中に校庭の除染がおわり、入学して5ヶ月たち、初めて校庭で遊ぶことが許されたのです。
校庭の活動再開を知らせるプリントには、キマリがずらりと並んでいました。
草花には触らない。
虫には触らない。
遊具には触らない。
土には触らない。
校庭には座らない。
除染した校庭の土を埋めたバックネット裏には行かない。
マスクをはずさない。
1時間の屋外活動制限付で。
あー。やっぱり、だめなんだ!
除染したのに、この対応!
次の長期休暇は?どうしよう!また、頭の中がぐるぐる、心がザワザワと、、、、
夏、秋田へ行くとき、声をかけたママ友達の半数は、行かないという選択でした。県外避難しない仲間に だと勝手に思っていたので、断られたときはショックでした。
あー。そうか避難じゃなくて保養でも行かないって選択もあるんだ。
そうか。。そうだよね。。
このママたちの前でもう保養の話はできない。気をつけなくちゃ。
保養について、避難については次第に誰とでも話せる内容ではなくなりつつありました。
県外に避難しないことを選んだのに、長期休暇は避難させたい。これって変なのかな。どうなのかな。
秋田のように受け入れてくれる先はあるだろうか。県は補助金をだしてくれるだろうか。高速道路無料措置はいつまで続くのだろうか。
こうしている間に、だれかに先をこされてしまうんじゃないだろうか。
毎日、保養場所をさがしてパソコンのサイトを探すようになったのはこの頃からです。
【保養先】
探しはじめて、すぐにみつけたのはここ。母子疎開ネットワーク
http://hinanshien.blog.shinobi.jp/Category/30/
ありがたいことに、福島のこどものために、沖縄、北海道、海外まで、長期、短期、週末保養の情報が日々更新されていました
(今はぼーちゃんが横の和をつなげてくれて、もっと便利になっています)
ほよ~ん相談会
http://hoyou.isshin.cc/
当時は母子疎開という名前の通り、母子で疎開。保養するものが多く、対象は、就学時前の子供たちと保護者の印象をうけました。
会社を休めない我が家には利用できません。
また、長期休暇に保養を検討するには、3ヶ月前、遅くても2ヶ月前には、掲示板から情報をみつけて、決断し申し込みをする必要があり、秋田保養で疲れがでていた私には、見つけた時には〆切後だったり、小学生以上が対象でも、沖縄、北海道と遠方すぎて、子供を一人で行かせる自信がなかったり、決断できずに、冬をすごしました。
そんな時に見つけたのが、ぼーちゃんの、ふくしまっこ元気村キャンプの募集でした。
東京西多摩。
20名程度。
小学生以上。
シンプルな募集要項だった気がします。でも、他の募集要項が、内部被曝や、放射能についての危険性を理由に募集しているのと違って、
『東京の奥多摩で遊びましょう!』その文章にとても心惹かれました。
危険なことはわかっていて生活をしているのを、後ろめたくおもっていたからなのか、内部被曝などといわれると、そうだけど、そうじゃなくて、、と、、でも、ふくしまっこ元気村は、何か違いました。
すぐにメールをし、ぼーちゃんとのやりとりがはじまりました。
【ぼーちゃん】
ぼーちゃんは、私が不安に思っていることを文章にして言葉にして表現してくれました。
一つ質問すると、こういうことですか?じゃあこうしましょう。
一つ相談すると、じゃあ、専門の方を呼びましょう、と人材を集めてくれました。
次の日には、ママ友達へ、こんな保養がある!夏休みにいかせよう!と誘いのメールをいれていました。
このぼーちゃんとのやりとりは、春に県が主催した3泊4日の保養キャンプへ行かせた後のことでした。
このキャンプは、県が某企業の出資を受け、大学生を急遽集め、大型バス6台で那須の自然の家へ保養するものでした。大学生も子供たちも、何の心準備もしないままでのキャンプだったのではないかと思います。
4日間、洗うことなくお茶を足しながら使ってた水筒。
2日目あたりから、子供達の扱いに戸惑う大学生に怒鳴られる生活。
三食だされるバイキング料理を感謝もせずに残す生活。
疲れ切って、帰宅しました。
それでも、私たちが子供を保養に行かせられること、先着順に入れたことを喜んでいたのをみていたからか、つまらなかったとはいいませんでした。
春にこんな経験をしていたので、ふくしまっこキャンプへの注文はかなり多くなりました。
それでもぼーちゃんは、わたしの注文一つ一つに、わかりましたと快く受けてくれました。
注文一覧
①仕事があるので、行きは早朝に。帰りは夕方帰ってきてほしい。
②外遊びをさせてほしい
③水遊びをさせてほしい
④綺麗な空気を吸わせてほしい
⑤日々の様子を教えてほしい
⑥保養所近くの小児科、外科をおしえてほしい
⑦自主勉強の時間を作って欲しい
などなど。
メールでやりとりしてるだけの、しかもボランティアで見てくれるぼーちゃんに、よくこんなに、注文をつけましたよね(笑)
メールでやりとりしているだけ!
県のキャンプでの苦い経験!
それも吹き飛ばすくらい、ぼーちゃんには、この人は大丈夫だと私に確信させるものがありました。
確信させたものに
『少なくても5年間はキャンプを続けます』
この言葉が一番大きかったです。
長期休暇がおわると、次の休暇までに、どこか保養へと毎日、毎日、保養先を探していた私の気持ちを知っているかのような、何よりの心強い言葉でした。
待ちに待ったキャンプに送り出してからの様子は、ぼーちゃんが丁寧に書き留めてくれている記録をご覧ください。
普通なら、当たり前の、マスクなしで、中学のグランドを思い切りかけまわる姿に。
プールサイドを裸足で歩き、時間制限なく学校のプールで遊ぶ姿に。
涙がでる思いでした!
キャンプの思い出は日常のいろんな場所で垣間見ることがあります。
夏休み明けの、自由工作がキャンプへいったこたちがみんな一緒だったり(笑)
時々、思い出したように、ガメラのキャンプの歌を口ずさみながら、登校する子供達を、あー。キャンプのみんなに見せてあげたい!と微笑ましく見ています。
【最後に】
ふくしまの子供たちは、今も、たくさんの方に、援助を受け、心配され、気にかけてもらっています。
本当にありがたいです。
ふくしまっこ元気村キャンプは、福島にいる私たちに寄り添って、その時、その時の福島の変化。こどもたちに足りないもの。親の不安。求めていることを知ろうとし、毎回それをキャンプのテーマだったり、活動に反映してくれています。
今回で7回目がおわりました。
間も無く、約束の5年目がやってきます。
震災がなかったら、わたしたちは、
出会うことはなかったでしょう。
子供達がいま、そして将来、それをどう思って、キャンプでの体験を思い出に、また生かして生きていくのか。
福島を外から見る経験は、この先の人生に大きな影響を与えるにちがいないとおもいます。
小学校3年生だった長男も、中学2年生の夏を間もなくむかえます。
来年の今頃は高校受験。
福島は中学受験があまり盛んではないので、初めての受験になります。
ぼーちゃんはじめ、スタッフのみなさんが中学の頃、どんな夢があって、どんな経験をしてきて、いまどんな仕事をしていて、そして自分達に関わってくれているのか、学べる年齢になってきています。
甥っ子や姪っ子に話すように、次会うときはそんな話も、子供達にしてほしいなぁなんておもいます。
また注文が増えたっていわれそうですが(笑)
目に見えないたくさんの方々に、支えられて、過ごしていることに感謝して、8回目のキャンプをたのしみにしています。
お会いしてお礼をできないことがはがゆいですが、、、
この場をかりまして、お礼をさせてください。
こどもたちへたくさんの支援と愛情をありがとうございます!( ´ ▽ ` )ノ
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以上です。
ちなみにこの初回のキャンプの時に子どもたちを大久野中学校のグラウンドで好きに遊んでいいよと解き放ったときに彼らが見せた表情が私のこのキャンプを続ける大きな力になっています。
何年も続けることでようやく見えてくることがあることを知りました。
感謝したいのはこちらも同じ気持ちです。
勇気あるお母さんのお手紙に心打たれました。私たちの保養キャンプも8回終えました。10年は続けたいと思っています。子どもたちが高校生になってスタッフとして来てくれることを夢見て続けています。
なかのアクション福島子ども保養プロジェクト