僕らのキャンプ、毎回そうなのですが最終日は帰るだけなんです。福島に到着する時間のことを考えるとこうなります。

朝9時に出発するため、特別にみなさんにお伝えするほどのこともありません。

なので、今回は感じたことをそのまま書いてみたいと思います。

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元気村キャンプは、一週間、大人と子供30名以上がひとつところに生活をします。この生活は「いつもの生活」とは異なります。起きて、朝ごはんを食べ、普段ならここでそれぞれの社会生活へ向かうわけですが、そうではありません。この後もみんなで1つのことをします。

例えば「川で遊ぶ」とき。

大人は・・・ 役割があります。上流・下流で持ち場を決め、子供が遠くにいかないようにしたり、飛び込む子供たちをケアする安全管理のスタッフや、保健担当、記録係、全体の統括などの役割があります。同じ場所にはいませんが、この間に買出しをするスタッフや、昼食を用意するスタッフなどもいます。

子供は・・・ それぞれの興味などに応じて、泳いだり、飛び込んだり、生き物を探してみたりと、好みにあった遊び方をします。強いていえば主役という役割を実行する感じでしょうか。

場所や、役割は違っても「川で遊ぶ」という同じ目標にむかって、各々が役割を実行するのです。

ここで思うことが2つあります。まずひとつは「役割」について。

大勢でひとつの目標に向かうとき、「役割」が大切になります。これがはっきりしないと、みんなが混乱する。当たり前ですが「何をしていいかわからない」という人の集まりでは、何事も上手くいかないわけですから。

こうした点とは別に、個人の希望や、能力にみあった役割というのは、その人の気持ちを安定させます。すべきことをすることで、周囲から必要とされているという感覚や、期待に応えられているという実感、役割をこなすことが出来たという達成感を得て、それが欲求を満足させます。

キャンプほどマズローの「自己実現理論」を実感しやすい機会はありません。この理論でいえば「所属と愛の欲求」が満たされるということでしょうか。自分が何かに所属していたいという欲求であり、他者に受け入れられたいという欲求のことをいいます。

片や子供たちの「主役」という役割はとてもあいまいです。「遊ぶ」という役割ではその組織、僕らでいえば元気村に受け入れられているという実感は感じづらいでしょうから。

ほとんどの子供が、役割ではなく、周りにいる人と関係を築いて欲求を満たそうとします。おおよそ性別で分かれたり、近い学年でつながる傾向が強いです。子供は、子供の中でその世界を作ろうとしますが、上手くいかないことが往々にしてあります。(子供に限った話ではく、大人でもおきることですが)

すると輪の中心から少しずつ外に向かうかのように、対象が変わってゆきます。キャンプだとその輪の外側は「大人(スタッフ)」です。そのため大人の方にだけ向いている関係があるとすると、それはちょっとケアした方がよい関係であったりします。居場所を上手く見つけられないという、SOSかもしれません。

何度か元気村に来ている子供たちは、子供にも、大人にも顔見知りがいて、最初からリラックスしやすい状況があります。居場所を見つけやすいのですね。まあよく知っているからこそ衝突することもあるのですが。

もうひとつは「みんなで1つのことをする」ということ。このことの意義です。

お父さん、お母さん、想像してみてください。朝ごはんを食べた後に、子供と一緒に学校にいって、みなさんが授業を受けもち、給食をつくり、次の授業の準備をしながら、保健の先生、用務員さん、校長先生、担任の先生の役割をするのです。しかも学校が終わっても自分の家には帰らずに、大きな家でみんなで暮らします。これが1週間続くのがキャンプのイメージです。

1週間って普段はとっても早いですけど、キャンプ期間中の1日はとっても長いですよ。とにかく濃密です。こうした特殊な環境で暮らせば、ひとり、ひとりのことをどんどん近く感じるようになるのも当たり前かもしれません。

キャンプ7日目。全員の顔と名前はもちろん一致するし、どんな性格なのか分かり始め、関係を築いたころに別れがやってきます。彼らが乗ったバスを見送って、なんとなくキャンプのことを振り返ると、嗚咽するほど涙がでます。悲しいわけではないのです。あんなこともあった、こんなこともあったと思いだしながら、一人ひとりの顔や、場面を思い出すとなぜか。

こうした濃密な時間。大いに感情を刺激しあい、他者と深く接する機会があることを、有難く思っています。キャンプを生業とする人たちの気持ちもわかる気がします。

そうした観点で、キャンプの写真を眺めてみてください。初日と、6日目ではみんなの表情が違います。

今回のキャンプでみんなで歌った「大人も、子供も、みんなみんな~♪」というあの歌のフレーズを聞くと、よぎることがあります。

大人も、子供も関係なく、みんな自分の居場所をつくろうとします。この居場所をつくる過程で、泣いたり、笑ったり、怒鳴ったり、喧嘩したりする。そうした豊かで、本気の感情表現が、大人にも、子供とってもキラキラとした宝石のように大切な「成長の糧」なのだと思います。みんな上手にぶつかりあって、少しずつ傷つき、傷つけ合い、一つひとつ学びながら前に進んでゆけばいい。1つのことを共有することで、自分のことも、他の人のことも同じように喜び、悲しめるようになれればいい。

この「相手の気持ちを共感的に受け止める力」は、社会をよくしてゆく原動力だと思います。

たまに子供からの質問で「ぼーちゃんって本当に村長なの?」と聞かれます。まあ嘘ではないですから「そうだよ」と答えています。どうやら選挙で選ばれた、村長さんだと勘違いするようです。元気村はある時期、ある場所に生まれる村です。地図のどこにもありませんが、村がある時は、村人はみんなでひとつ所に暮らします。

僕も子供の頃、よくキャンプに参加しましたが、1つ1つのこと、すべての人のことは覚えはいません。が、そこに自分を受け入れてくれる場所があったという記憶は残っています。楽しかった何かや、優しかった誰か、しんどかった事や、よく叱られたこと、面白かったことなどの。こうした豊かな記憶がみんなに残ればと思います。それこそ「大人も、子供も、みんな、みんな~♪」です。

最後に。大人も、子供も、みんなとは言うものの、社会での扱いは当然違います。子供が子供であるうちにやっておいたほうがよいことはたくさんあります。彼らが子供である時期に奪われてしまったことをやることに、本来的な元気村キャンプの意義があります。その意味において今回のキャンプで海に来たことは大きな出来事だったと、子供たちの反応から感じました。

そして本来出会うはずではなかった僕らですが、こうして不思議な出会いをした訳ですから、僕たちだからこそ生み出せる「何か」を見つけたいと思います。彼らが失ったであろう事を考えると、そのくらいの何かはあっていいはずです。今回のキャンプでそのヒントは出てきたと思うのですが、このことはまた別の機会に。

子供たちの1年は、私たち大人のそれとは大きく異なります。あの事故からもう2年以上が立ちました。大人は早いものだと感じがちですが、彼らはどうでしょうか。自分が子供だった頃のことを思いだし、彼らの気分を共感的に受け止めることができれば、このキャンプの本当の価値が理解できるかもしれません。

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今日の写真は子供ひとりひとりのショットです。その子らしさが出ている写真や、よく見せるしぐさ、輝いている表情の写真を選んでみました。

 

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ちょっと小さな大人たち?も。