2014春キャンプの報告&夏キャンプへのサポートのお願い
このキャンプをサポートしてくださる皆さんへ
お陰さまで春のキャンプも無事に終わり、今はこの夏のキャンプに向けて準備をしています。今日はみなさんに、春のキャンプの様子、福島のこと、夏のキャンプについてお伝えさせていただきますね。
はじめて僕らのキャンプに関わりをもった方に向けて説明しますね。2012年の春、僕らの最初のキャンプが東京都日の出町で行われました。キッカケは福島から避難してきた人たちとの交流でした。当時は「とにかく福島から子供たちを連れ出そう」という気分が強かったです。
よく現地の状況もわからないままに始まったキャンプですから、始めた後に福島を訪れ、参加者の家庭と仲良くし、込み入った話ができる関係を築き、福島のニーズに応じたキャンプをしようとしてきました。
その手法が「一度参加した家庭から優先的に参加募集の声がけをする」であり、「福島報告会」であります。
そうした関係ですから、福島へバスで迎えにいくと子供たちが「今回○○さんはキャンプにくる?」と聞いてきたり、僕らスタッフも「誰が参加するのか?」とか「○○くんが参加しないのはどうしたのか?」とか互いに気にしたりしながらキャンプを運営しています。
この春のキャンプ
各日の詳しい内容はホームページにアップしました。こちらをご覧ください。
http://genkimura.letsgoout.jp/pastcamp/
このキャンプのコンセプトは「子供が、子供のうちに、いろんなことを体験させてあげよう」というものです。特に今の福島では難しいだろうなということを優先しています。たとえば5日目の「食べられる野草摘み」なんかはその典型です。6年生の男の子が「福島ではこういうことができないから、東京はいいな。こういうのはありがたいな。」とボソッといいました。こういう何気ない子供たちの言葉をキャンプのいろんなところで耳にします。そうした言葉から子供たちが今の福島をどう捉えているか、うかがい知ることができます。東京にしては決してお店が多いとはいえない、あきる野市の商店街をみて「東京はすごく明るい。福島はとても暗い。」と子供たちは明るく口にしていましたが、なんとなく彼らなりの東京への気分を感じさせられました。
この春のキャンプの表テーマは「つくる」でした。みんなで一緒に食事から、クラフトなどを一緒につくるわけです。一番大きな「つくる」はいつも遊んでくれる大久野中学校に寄贈した「木のベンチ」でした。
なぜこのベンチを作ったのか?実は裏テーマがありまして、それが「卒業」でした。
最初のキャンプのとき、一番多かったのが4年生の子供たち。当時、親が見知らぬ人たちに子供だけを1週間あずける決断をしやすかった子供の年齢がそのあたりだったのだと推測します。その子供たちがこの春中学生になりました。中学生になると子供たちは忙しくなって、夏休みに1週間離れることが難しくなります。
この子達、ぼくらに「中学生になってもキャンプにくる!」とか、「高校生になったら、キャンプを手伝いたい!」とか、そうしたメッセージをところどころで発してくれるのです。それはとても嬉しいことなのですが、彼らが大人になる過程に必要なことはほかにもあります。このぐらいの年齢になれば自分の意志を他人に伝えるようになるし、僕らとしてはそうした子供が大人になろうとしている過程を尊重したい。なので「誰かに感謝を伝えたことで、子供たちの肩の荷が少し下りればいいな」という気分で、いつもお世話になっている大久野中学校へ、感謝をこめてみんなでベンチを作って寄贈しました。メッセージを添えて。
ベンチは中学校の生徒会の希望でした。大久野中では野外で煮炊きする授業?があるのですが、その際に座る場所がないとのこと。本当は子供たちと一緒にこの話をきいて、自主的にベンチ作りになったりすると面白いとおもうのですが、1年に2回のキャンプではそこまでは難しいので、大人がお膳立てした寄贈ではあるのですが。
それともうひとつ、中学生になる子供たちへは「アルバム」を作って渡しました。こちらはスタッフのメッセージを添えて。元気村に卒業はなく、中学生になったって大歓迎なのですが、これも肩の荷を軽くする目的で一区切りつけたかった。伝えられるときに、伝えたいことを、伝えたい人に、伝えようという気分を形にしたものでした。いつか読み返したときに、楽しかったことを色鮮やかに思い出す手助けになればいいなと思います。
報告会にて
冒頭にお伝えしましたが、元気村キャンプには「福島報告会」というのがあります。これはキャンプ開始前、終了後に郡山市、福島市を訪れて、終了したキャンプの報告、子供たちが家庭で話さなそうなことをスタッフが話したり、次のキャンプのこと、これからのキャンプのことを話します。
懇親だったり、最近の様子を聞きに行くわけですから、食事会という名の飲み会をしたり、宿泊は参加者のお宅に泊めていただいたりしています。子供をキャンプに参加させると、もれなく東京からいい年した大人たちが押し寄せて、酒を飲みに行くぞとなったり、挙句には家に泊めろ!となったりしている訳です。「交流」といえば響きが美しい?ですが、実際はこんな感じです。人付き合いは、いつ、どこでも変わらないのだと思います。
今回の報告会で感じたことは「鼻血」のこと。最近、漫画の表現が云々・・・で、福島の鼻血のことがクローズアップされました。福島第一原発の事故直後、子供が鼻血をだして、遠方への避難を決断したり、とにかく車で県外へ出かけた人の話を沢山聞いてきました。僕は何にも見た訳ではないけれども、これだけいろんな人から聞けば、あの時に表で遊んでいた子供たちの幾パーセント?は鼻血をだしたのだと思っていました。
ところがいくつかの家庭からは「鼻血を出したなんて話、聞いたことない。」という話を聞きました。一方、別の家庭では「なんで今頃こんな話になるんだろうね?みんなで『うちの子も出した』って言い合っていたのに」と話しています。これはどういうことでしょうか?
同じ時に、同じ地域にいて、すべての子供が鼻血を出したわけではないですから、そうした子供と、そうでない子供がいるのはわかるのですが、聞いたことすらないといいます。これは想像ですが、あの時から、今になっても「互いの話をしていない」のだと思います。
福島の分断については以前にホームページでお伝えしましたが(http://genkimura.letsgoout.jp/purpose)、あれから3年半が経とうとしている今でも、当時の状況を振り返り、自分がどういう気持ちだったか、どういう状況に置かれていたのか、他人と話をする機会が少ないのだと感じました。福島の同じ地域で鼻血に対する見解がこうも違うわけですから、あの鼻血騒動の真実などというのは、そんなにシンプルなものではないと思います。
そしてこれからのキャンプコンセプトについて話をしました。ここまでキャンプを運営してみて感じたのは、人に救いというのがあるのだとしたら、それは人によってもたらされるのだということです。
以下、ぼくの個人的なお話です。今回のキャンプ中、いつものようにカメラで写真をとっていました。ちょうどベンチをつくっているときに、屈もうとしたら、背中に背負っていたカメラがそこにいた子供の頭にガチンとあたりました。いつも元気な子が、頭を抑えて痛そうにし、一言も発しません。大げさに声をかけると返って痛がると思い、様子をみていたのですが、彼が痛いという前に発した一言は「ぼーちゃんのカメラ大丈夫?壊れてない?」というものでした。僕は感動しました。虚をつかれ、想像もしていなかった一言をうけとると、心のなかで小さな小波がたち、それがやがて大きく波を打ち返し、飲み込まれるような気分でした。
本当にキャンプを続けていてよかったな、ありがたいなと思うし、それ以上に、今の時代にはこうした人と人とが時と場所を同じくし、心を通わせ、何かを感じ、その力で、その信じるところで明日に向かっていけるような、そうした機会が大切だと強く感じました。
そうした感情を表したのが、「大きな親戚」や、「大きな家族」です。月並みなコンセプトですが、このキャンプはこれでいいと信じています。
そしてもうひとつ、元気村キャンプの女子部?の面々から「福島っこ元気村 秋キャンプ」の提案がありました。これは両親を含めたみんなでキャンプをすること、子供が中学生になって元気村に参加しなくなった家庭ともつながりが途絶えないようにとの目的からです。おそらく場所は福島市、郡山市の近くで行うことになると思います。
できればここで「振り返り」をしてみたいと思います。この3年半を、落ち着いて振り返ってみて、どういう気分だったのか、何があったのか、それは何がキッカケで、どう変化して、今はどういう気分なのか。みんなの前で発表しあえないかな?と。みんなに強制はしないけども、たとえ僕だけでも発表してみようと思います。
ちょっと余談 ~ 中学生になると・・・ ~
前出にあったとおり、中学生になるとキャンプに参加しづらくなります。それは子ども自身が忙しくなるのが一番の理由なのですが、この状況を県外の方が見ると「放射線量の高い地域だったら、中学生でも外にだせばよいのに・・・」と思うようです。あたりまえな疑問ですね。
このあたりの微妙な感じが災害の中でも「原発事故」のとても厄介なところです。今の福島が明らかに命に関わる状況であれば、今は誰も住んでいないと思います。放射線は目に見えないから、会社も、学校も、スーパーも、公園もなんだって他の日本の市町村と同じように見えます。所々に空間線量が書かれていたり、線量計があったりしても、それが毎日のこと、イコール日常になってしまえば、その他の地域となんら変わらない生活があります。
この状況を日常ではなく、受け入れがたい異常だととらえればとらえるほど、毎日が苦痛になり、その状態が3年半も続けば、心がおかしくなるか、おかしくなる前に移住するか。いずれにせよそんなに選択肢はありません。
移住した人もたくさん知っています。みんな友達ですが、移住を決断したときの話をしているとほとんどの人が泣きました。傍からみれば、移住してしまえば解決するように見えることも、そんなに単純なことではなく、置いてきた人や、事柄のことを思えば、心をえぐられるような気分であったのだと思います。
日常を受け入れる覚悟をしても、移住する決断をしても、どちらもそんなに簡単ではなかったし、今も簡単ではない。
移住した人も、移住先で福島の人たちが今後移住の決断をしてもいいように活動している人が沢山います。
残る決断をした家庭だって、いろんな機会をつくり、なるべく県外で過ごそうとする。Facebookなどでお友達になれば、僕らのキャンプ以外の時間をどう過ごしているかだってわかる。
毎日の平穏な生活に身をゆだねることで、平気だと自分に言い聞かせることもできるけれども、完璧に不安を消し去ってしまうことはできない。
誰もこの状況に満足していないし、受け入れればそれで終わる話でもない。
僕らがお付き合いしているのは、多かれ、少なかれ、そうした状況の人たちです。この間にいろんなことがあって、いまの状況があります。その経緯を知らないとはいえ「中学生になったってキャンプにいけば云々・・・」という一言がどういう気分にその人たちをさせるか。
人を思いやるなどと口にするのは簡単ですが、これはとても難しいことだと思います。日々訓練するしかない。みんな世の中のこと、他の人の事に興味をもって、少しでも互いに想像しあう関係になろうとする以外ないのかもしれませんね。たとえ相手を傷つけたとしても、それでも相手を理解しようとし、前に進もうとする、しなやかで、強い優しさを身につければいいんのだと割り切って。
会計面について
さてお金の件です。およそ79万円の収入(寄付金は59万円)に対して、72万円の支出でした。助成金の獲得ができなくなって以降、はじめて自己資金の持ち出しがなく運営できたキャンプとなりました。大きな理由としては、さまざまな便宜を図っていただいたことです。宿泊施設の値引き、食材の提供、交通費や、入浴代などスタッフが実費でかかる経費もスタッフの自費としたことで、どうにか達成することができました。本音でいえば、もう少しまともに支払う能力があれば、バスをワンサイズ大きくして参加者を増やすなり、参加者の参加費負担(1万円/人)を下げるなり、1回ぐらいは日帰り温泉を利用するなりして、余裕がほしい。ただ安全に運営することが第一なので、それ以上を今は望めないと感じています。
詳しい会計報告はこちらです。 会計収支計算書(PDFファイル形式)
物資
いつもお付き合いさせていただいている方たちから、いつものように食べ物や、プログラムで使用するものを無償提供いただきました。この「いつも」がとてもありがたいです。またインターネット(アマゾン)を活用することで、広く、聞き覚えのない方達からも、食材や、物品をいただくことができるようになりました。あっ、それと全国の大家さんから、さまざまに支援いただきました。
こうしたものをいただいております。 http://genkimura.letsgoout.jp/cwmps/?p=4457
個人的な報告
これは僕個人のことです。これまでキャンプで子供たちの前で大きな声を出してきませんでした。そうしたかったし、他のスタッフがしかり役を買ってでてくれることで、そうする必要がなかったのですが、今回怒りをあらわにする出来事がありました。
子供たちが家の中で遊んでいるときに、いただいた食料を投げてキャッチボールしていました。食べ物を粗末に・・・というのもそうですが、それより、これらの食料は顔もみたことなく、話したこともない人たちから、一方的に僕らを信頼してくれて届けられています。その人たちに感謝しろと子供たちに押し付けることはしなくても、高学年にもなれば、どういう理由で食べ物をくださっているのか理解できないわけではない。まして毎回口にしているものであれば、知らないはずがない。
そうした人の気持ちになんとなく気づいていながら、踏みにじってしまうようなことをこの元気村では認めてはいけないと思いました。これはすべての子供たちがしたことではありませんが、たとえ投げていなくても、見ても何も言わなければ、投げているのと変わらないと話しました。
正直、この一言を発する前に躊躇しました。このことを口にするということは、それを自らに課すことであり、自分がそんなに立派だとも思えなければ、この先、何かあったときに、見て見ぬふりをしてはいけないということです。言い換えれば原発だってそうした今を生きる大人たちが見てみぬふりをした側面がたぶんにあります。子供を預かるということは、怪我さえなければ、楽しくさえあればなんでもいいというのではないと思いました。
それとキャンプの最終日、みんなが帰る前に最後のお話をします。無事に楽しく終わって、また会って、みんなでキャンプしたいね・・・という気分をどう伝えるかなのですが、子供を前にして話すとき、理屈や、理論で話してもいまいち届かない。なので話す前になるべく心を空っぽにして、みんなを前にして、感じるままに話をしています。
今回はみんなに、子供へも、大人へも、またみんなで楽しくあって、キャンプができるように、明日から自分のやるべきことをやって、またみんなで会おうね、と話しました。
子供たちは学校や、家庭ですべきことがあり、僕らだって、職場や、家庭やら、さまざまなところでやるべきことがあります。そうしたやるべきことをして、やりたいことをするために明日からがんばろうね、と。
どこまで届いたかわかりませんが、そうした気分でこの夏のキャンプを迎えたいと思っています。
夏のキャンプについて
さて毎回場所に困る僕らのキャンプですが、今回は昨年の夏同様、移動キャンプです。前半は奥多摩町、後半はあきる野市です。どちらも自然にあふれ、夏休みならではの楽しい事ができるフィールドです。
今回も「大きな家族感」や、子供たちの記憶の断片に何かが少し残ればいいなと思い、元気村の旗をつくることにしました。この旗ができたら、どこに行くときもこの旗を掲げ、この旗がある場所が僕ら「福島っこ元気村」なのだと謳おうと思います。この旗がたてばそこが僕らの居場所、元気村なのです。願わくばこの旗を見たときに、記憶が刺激され、ちょっとでもこのキャンプが楽しかったことを思い出してもらえればいいなと思います。
この夏のキャンプ、24名の子供たちがやってきます。この春中学生になった子供たちがいて、どのくらいの応募になるのかわかりませんでしたが、一時募集(一度きた子供たちへの募集呼びかけ)で、19名が参加することになりました。中学生は3名きます。
残りの定員5名をインターネットの「ほよーん相談会」で募集したところ、数時間で2人のお母さんから連絡をもらい、姉妹2名と、お友達づれ3名で埋まりました。一方は深夜2時にメールで連絡があり、もう一方は翌朝8時30分にお電話をいただきました。
このことが福島のすべてを物語りませんが、事実ではあります。新しい出会いを楽しみにしつつ、この夏のキャンプもみんなで元気よく遊んで、笑って、怒って、泣いてをしたいと思います。
どうかこの夏のキャンプもみなさんのサポートをよろしくお願いいたします。
福島っこ元気村 村長
ぼーちゃん こと 堀内拓馬
*この報告を補足する資料や、夏のキャンプの詳しい内容はこちらにあります。
春キャンプの報告 http://genkimura.letsgoout.jp/pastcamp
夏キャンプ募集中のこと http://genkimura.letsgoout.jp/advertise