2013.07.07

福島っこ元気村キャンプ

村長 堀内拓馬

 

「保養キャンプ」をご存知ですか?

あの津波が浜通りを襲った翌日、福島第一原発一号機建屋で爆発が起こり、20キロ圏内に避難指示がだされました。その時は気づきませんでしたが、この爆発はたくさんの「不幸の種」をばら撒きました。

ご存知のとおり、福島県をはじめ、近県の一部地域では原発事故以前と比べて高い放射線量が計測されています。このような地域の子供たちの体をまもる目的で実施するキャンプをこのように呼んでいます。

 

 

偶然生まれた元気村キャンプ(2012.03)

私たちの「福島っこ元気村キャンプ」も保養キャンプです。震災直後、東京に避難してきた福島の人たちとの交流から生まれました。「自分たちは避難したけど、まだできない人たちがいる。彼らの子供を、休みの間だけでいいから、東京で預かってほしい。」という要望に応えたものです。私たちに支援のアイディアがあったのではなく、「持ち込まれた話を引き受けた」のです。

私たちの母体「みんなの森財団」は、東京都日の出町でボランティア活動を行ってきましたから、呼びかければ手伝ってくれる仲間や、資金確保のノウハウ、地域のつながりがあったため、最初のキャンプは、準備1ヵ月で20名の子供たちを1週間受け入れることができました。通常なら3~6ヶ月かけて準備するような内容でしたが、当時は緊急度がとても高いと感じ、大急ぎで企画をたて、なんとか勢いで乗り切りきりました。

 

 

子供たちがグラウンドに寝転んだ!

1週間という長期キャンプの経験がありませんでしたし、ネットで参加募集しましたから、どんな子供たちと、どんなキャンプになるのか、まったく想像できませんでした。福島の子供たちは外遊びができないと聞いていましたから、電話して、子供たちに何をしたいか聞いてまわったところ、圧倒的に「グラウンドで遊びたい」と返ってきました。サッカーやら、野球やら、鬼ごっこやら、バドミントンやら。とにかく外で遊びたい、と。

グラウンドで彼らが遊んでいた光景は今でも忘れません。カメラのファインダーを通して、生き生きと遊ぶ彼らの表情をみて「本当にやってよかった」と心の底から思いました。

グラウンドを走り回る子供たち

 

 

キャンプ報告会(2012.06)

キャンプ終了後、保護者、子供たちを福島へ訪ねました。この時初めてみんな顔を合わせたのです。彼らがどういう状況におかれているのか、直接話したかったし、キャンプの評価や、これからのキャンプの方向性を決める材料も欲しかった。本当はこういう話が先にくるはずなのですが、順番が逆になるくらい手探りでスタートしたキャンプでした。

この報告会、僕らはラフな格好だったのですが、集まったお母さん達はスーツだったり、割とフォーマルな感じでした。お互いをまったく知らないままに子供を預け、預かったので、お互いの様子がまったくわかっていなかったのです。どんな人たちかも知らないままに、1週間も子供を預ける人たちがネットで簡単に集まる状況は「普通」ではなかったと思います。

肝心の報告会ですが、こちらで議題を考える必要がない感じでした。どんな議題であっても、身の上におきている話がでてきたら、そこから「そうそう、私も。それでね・・・」といった感じで話が広がっていき、話し合うというより、とにかく話を聞くという風でした。当時のメモをみるとそのことがよくわかります。

参加したお母さんたちは、地元出身で、共働きの家庭がほとんどでした。私たちのような「地元の人間ではない人(しがらみの外の人)」になら気にせず話せることもあったでしょう。また夫婦そろって長期の休みを取ることは難しいですから、私たちのような子供だけでも預かるキャンプには、なんとなくと同じような家庭環境の子供が多くなる傾向がありました。

当時のメモ

 

 

変わり行く暮らしと変わらない放射能

早いもので、この夏、元気村キャンプは4回目を迎えます。これまで学校、行政が禁止していたことが、だんだんと事故前の状況に戻りつつあります。

学校単位、行政区単位で違うのですが、運動会や、プールは復活しました。運動会は半日だけのところもあれば、体育館で実施するところもあります。プールは、プールサイドにスノコを置いて、その上を歩いてプールに入る学校もありました。プールサイドには放射性物質がたまりやすいというのがその理由のようですが「ならプールの水は大丈夫なの?」と感じていた人はたくさんいます。

スーパーだって、ショッピングモールだって、なんだって他県と同じように営業しています。会社で働いて、給与をもらい、ほしいものはお店で買って暮らすことができます。日本で当たり前の日常が、福島にもあります。

片や放射能(正しくは放射性物質)ですが、多くの人が計測器を持っていて、自宅周辺や、通学路、子供たちが遊ぶところの放射線量を計測してきました。事故後、学校や、公共施設は除染が進み、住宅地も徐々に進んでいます。全体として放射能は減ってきてはいるものの、何かの拍子に増えたり、局所的に驚くほど高い値が出たりします。福島にはたくさんの自然がありますから、風が吹けば、除染されていない山から放射能がやってくるのです。

いくら念入りに子供たちの生活圏を計測したとしても、明日になれば状況が変わるかもしれない。とてもつきあいきれる相手ではありません。

 

 

いまも続く不安(2013.07)

あれから2年以上が経ちますが、福島の不安はずうっと続いています。続いているどころか、不安の質が変化して、以前より複雑化しています。

この2年間、多くのお母さんたちが放射能に立ち向かい、子供たちを守るべく、いろんなところに出かけて話を聞き、本を手にとり、注意深く食べ物を選び、通学路はどうか?自宅は安全か?今年はグラウンドで運動会をやるが、本当に安全か?となりの学校はやらないのに・・・といった具合に、家族の幸せを守るための静かな戦いを繰り広げてきました。食べ物だって「○○が放射能によい」と聞けば子供たちに食べさせてみたり、「○○が危ない」と聞けば避け、さまざまなことを試してきたのです。

でも終わりの見えないこの状況に、ずっと臨戦態勢のままでいられるでしょうか?みなさんなら、自分の子供が大人になり、健康な姿を目にするその日まで、毎日目に見えない放射能と戦い続け、自分を奮い立たせることができますか?

ほとんどの人はできません。疲れ果ててしまうのです。生活のあらゆることに気を使いながら、育児と、家事や、仕事のすべてをなりたたせるなど到底できるものではありません。

そうして不安から気持ちを遠ざけても、今度は「不安に思っていない自分」に不安を覚えるのです。終わりがないのです。

 

 

分断 ~善意が人を傷つける~

最も厄介で、やり場のない怒りを覚えるのがこの「分断」です。ここで言う分断とは、「言葉で人を傷つけたり、逆に傷つけられたりすることで生まれる、人と人の間の心の溝」のことです。「あの人は私とは違う」という意識が引き金になります。今の福島はこれが非常に生まれやすい状況にあるのです。

始まりは「放射能」に感じる恐怖の度合いや、対応の違いでした。事故直後はみんな、マスクをしていたし、水だって水道の水を飲まなかった。車での送迎も普通のことだったし、学校だってグラウンドでは一切遊ばせなかったのです。

ところが時間が経つにつれて、個々人の対応が変わってきました。気にせず洗濯物を外に干す人もいれば、買った水を水筒にいれて持たせる家庭もあります。いまだマスクをしている子供だっています。学校が、市が、偉い学者が「そこまでする必要はない」って言っているのに、まだそうしている人もいる。そんな人をみて「あの人、いつまでそんなことしているのかしら?」って思う・・・ この気持ちはどこからくるのでしょう?

もう疲れ果て、そんなことを気にしながら暮らす生活から抜け出したい。人によって安全に対する意識や、生活で優先することが違うのは当たり前だし、普段ならそんなことで他人を責めはしないのだけど、ことは子供の健康にかかわることです。

他の人がやること見て、自分の考えが正しいのか不安になり、「あなたは間違っている」と他人を責めることで、自分の考えを肯定する。このことで不安を消し、安心したくなる。安全な暮らしを脅かされている人の心情としては、ごく自然なものだと思います。

しかしながらこの感情の不安定さが、家庭の中、友達の間、職場など、いたるところではびこって、人間の関係を徐々に壊していきます。誰だって、わざわざ孤立したくないわけですから、他人を傷つけて、関係がこじれるぐらいなら、口をつぐむ。これは当然の流れだと思います。

その結果「本音を話せる場所」というのがとても限られてしまいました。これまではできていたはずなのに、それができなくなってしまった。たとえば、食べ物のことを話題にしようとしても、周りには農家を営んでいる知り合いがたくさんいる。不用意な発言は彼らを傷つけてしまうかもしれない。そうした優しさや、気遣いが自分自身を追い込んでしまう。

夫婦間でもそれは一緒です。保養キャンプを始めてわかったことですが、一般的にお母さんは子供の前に危ないものがあると判断したら、それがどんなものであれ、即座に排除しようとします。片やお父さんは、状況をみて、いろいろのものを考慮し、総合的な判断を下そうとする傾向があります。このことが子供を放射能から守る対応に、見解の不一致を生み出しました。

実数はわかりません。「原発離婚」は福島ではよく聞く話だし、そこまでいかなくても、多くの家庭でたくさんの夫婦喧嘩が生まれたのではないでしょうか。保養キャンプに子供を送り出している間に、一息ついて、夫婦で話し合って落ち着いた・・・ なんて感想も少なくありません。本当にこんなことがいたるところで起きているのです。

以下はお母さんたちから直接聞いたお話です。

・子供の将来が不安になり、他県に避難するために仕事を辞めたいと伝えたところ、「今辞めるのは無責任だ」と言われた。辞めたくても、辞められない人のことを考えると、自分を責めてしまう。

・実家の農家で栽培している野菜を親からもらった。どうしても子供たちに食べさせたくなかったが、捨てては申し訳ないと思い、全部自分で食べた。

・農家に嫁いだお母さんは、舅さんに気を使って、家で作った米を子供に食べさせたくないといえない。変わりにスーパーで買ってきた米を、内緒で米びつに混ぜて、薄めている。

・今でも放射能の勉強をしてしまう。これ以上しても同じだと分っているが手に取ってしまう。気づくと、自分の考えに馴染むものだけ手にとっている。分っているのに、安心するために止められない。

・子供が参加するスポーツ少年団の保護者へ保養キャンプのチラシを配ったら、「やめてくれ」と言われた。保養に子供を出すことは、現状を「子供にとって危ない環境」であるということを認めること。回りから責められたりするので、保養に子供を出していると言えない。

これらひとつひとつのケースを想像してみてください。そこに悪意をもった人が登場しますか?

みんな普通に暮らしてきた、私たちとなんら変わらない普通の人たちです。しかしこんなことが日常的におきてきてしまうのが今の福島です。

 

ぐうの音も出ない一言

このように、この問題は「放射線量の高さ」だけでは片付けられなくなってしまいました。何ミリシーベルトならよくて、何ミリならだめという「不安の基準」がないからです。日常のあちこちの人間関係に分断の闇がはびこってしまい、誰にも、どうにもできないのです。

そこへ追い討ちをかけるのが「そんなに不安なら、どうして引っ越さないの?」という何気ない一言です。

外に住む人にしてみれば、これらの状況を知らず「素朴な疑問」としてでるこの一言が、これまで葛藤してきた人を沈黙させます。それはその通りなのだけど、それができないから、こうして悩んだり、さまざまに勉強や、努力をしてきた。そもそもそこを衝かれてしまっては、もうそれ以上何もいえなくなってしまうのです。

 

 

「どちらのご出身ですか?」という質問ですら・・・

他県にいる時、この質問に躊躇する福島の人はたくさんいると思います。事故後、小さな差別がたくさんありました。避難してきた福島出身の幼児を受け入れない幼稚園。駐車場で福島ナンバーの車を避けるように停車されたり、「遊びにくる時はタイヤを洗ってきて!」などと伝えられたり。少し勉強すれば、これらがどんなに愚かなことかわかるのですが、無知や、無関心は不安を連鎖させます。

こうしたことを見聞きしてきた人々が、子供を安心して他県にだすことができるでしょうか?

 

 

子供たちの自主的ルール

実はこのこと、私もよくわかっていないですが、どうやら「大人が知らない子供だけのルール」が存在するようです。

福島では土に触ってはいけないし、川遊びもだめ。こういう環境に慣れていくうちに、年長の子供たちが、下の子供たちを守るような仕組みがあるようなのです。これについては子供たちに聞いてみないとわかりません。

できれば元気村キャンプのプログラムとして、子供たちに普段窮屈に思っていることを聞いてみたいと思っています。ただし進め方によっては子供たちに嫌な思いをさせるかもしれないので、保護者の了解のもと、慎重に進める必要があります。

なんの責任もない子供たちに、どこまで私たち大人が負担をかけているのか。まだわからないのです。

・・・・・と、

このように、あの日の爆発がばら撒いた不幸の種がいたるところで芽をだしています。いったい誰がこんな風に福島をしてしまったのか?ふざけるな!と叫びたくなる気持ちでいっぱいです。

大きな声で叫べば、もしかしたら次に同じことが起こらなくなるかもしれません。お金ももらえるかもしれない。でも福島のことは現在進行形です。そこにあったはずの何気ない日常を取り戻し、子供の成長を喜び、家族と健康に暮らしたいという、人間の普遍的な幸福を求めているだけなのです。

お金があっても戻らない。偉いやつに謝らせても変わらない。いくら戦っても終わりが見えない。これが今の福島です。

 

 

不安と向き合わなくたっていいじゃない!

かくして思うことは「もう不安と向き合わなくてもいいじゃない!」ということです。これまでこの不安と向き合おうとして疲れたり、心を乱したりしてきました。向き合って解決するなら、いくらでも向き合えばいいと思いますが、根本的な解決が間単に訪れないとわかったら、向き合うのではなく、不安と上手に付き合あう方が、子供のため、自分のため、家族のためによっぽどよいのです。

解決しようとするから解決できない。なら不安を「飛び越えてしまえ!」と。

 

 

未来へ飛ぼう! 福島っこ元気村キャンプは希望のキャンプ

このキャンプ自体の役割は、福島の気持ちを代弁することでも、一緒に叫ぶことでもないのです。子供たちが健やかに大きく成長した未来をみんなで願い、叶えようとするものです。

そこで思うのです。

こんなにも短い間にさまざまの経験をしてきた子供たちというのは稀でしょう。福島でも、保養する先々でも、嬉しいことも、嫌なこともたくさんあったと思います。しかし少なくとも保養先であったことのほとんどは人々の善意から生まれたものです。キャンプで経験する自然体験もそうだし、そうした人の輪の中で生活することもそうだし、あらゆる体験が子供たちを成長させる、このことをなによりも大切にしようと。

いつか彼らが、人の気持ちを理解しようとする優しさと、少々の困難を跳ね返し、人の役に立つような頼もしさを持った人になってくれたなら、こんなに嬉しいことはありません。それはみんなの共通の思いです。

この子供たちは計らずとも、人の想いの温もりに包まれてきました。キャンプを運営している私にはわかります。この子供たちは多くの人の愛情のなかで大きくなっています。

大切なことは相手を子供だと侮ることなく、みんなの気持ちをしっかりと伝えること。多くの人に愛され、気遣われ、君たちの成長を楽しみにしている人が全国にたくさんいるということ。もし大人になって辛いときがやってきても、このことを思いせれば、それがこの子達が大きくなったときに、自分自身を支える力になるのだと思います。

だから私たちは伝えるのです。私たちは君たちのことが大好きだと。君たちのことを大切に思っているとも。

こうした状況を現実のものにするには、感傷に浸っていてはいけません。現実的なことを考える必要があります。でも私は、私一人でこのことを考えるつもりはありません。一緒になって考えてくれる仲間がいます。福島のお父さん、お母さんも一緒です。みんなでこの子達の成長を願い、そのためにこのキャンプをどうしてゆくのか?考えよう。

そうして私たちの保養キャンプがひとつの典型例になり、いろんなところで参考にしてもらえるようになれば、子供たちが自分を信じる力がもっと多くの人に行き渡るかもしれません。

子供たちの将来のこと、これからもっと考えてみましょう。飲みながら、語ってみましょう。この子達に、いつかこのキャンプを手伝わせるのは規定路線ですが、それだけではなんだかね。物足りない!(笑)

世の中には困っている人なんてたくさんいるのです。そういう人たちが目の前に現れたときに、迷わず手を差し出せるひとになってほしい。村長の欲目?でそう思ってしまいます。また私たち自身も、人の温もりをもった人であり続けたいと思います。

そんなことをいつかこの子達と実現するために、今はどうすればよいか。思案している最中です。

以上

 

*注意*

この文章にでてくる「福島」ですが、福島県全体を指すわけではありません。福島県の放射線量の高い地域を指しています。福島は大きく縦に3つに分かれます。東から「浜通り」「仲通り」「会津」です。(実際はその中でもさらに細かくわかれています)放射線量が高い地域は、主に、浜通り、仲通りです。山を越えた会津地方はほとんど影響がありません。そのため「福島」と一括りにすることはできませんし、農産物の風評被害が叫ばれるのはこういう理由もあります。